1月末。
真冬の西海岸、鰺ヶ沢海水浴場に訪れました。

今回の記事は、前半が寂しい景色、後半は悲しい童謡、赤い靴のお話です。
冬に読むと凍えてしまいそうな内容だったので、公開を見送っていました。
悲しい気持ちになっても構わない時、ひっそりとご覧ください。
弘前から青森県道30号岩木山環状線を使い、西津軽郡鰺ヶ沢町 (あじがさわまち) へ。
十面沢 (とつらざわ) の辺りから見た岩木山です。

鰺ヶ沢町に入った、県道3号線。
中村川が凍っていました。
白い建物、ホテル山海荘 創業館は、昨年2017年12月19日に閉館したそうです。

鰺ヶ沢海水浴場に到着。

場所はこちらです。
訪れた日の最高気温は、マイナス2度。

この右側が海水浴場。

左側は鰺ヶ沢漁港です。

流れ着いたゴミに薄らと雪。

鰺ヶ沢海水浴場。
誰もいません。

遠い空は鉛色。

昔、ここで溺れかかった子供を、1日に2人助けたことがあります。

堤防で寒風に耐える、海鳥。

立標周辺にも。

砂に刻まれた波線。

海も鉛色。

波と砂と小石が作った模様。

流木。

打ち上げられた海草。

凍えてしまいました。
海の駅わんど で暖を取ります。
昔は、ととまるしぇ という名前でした。
ミニ蕎麦とミニかき揚げ丼のセット500円で生き返りました。

海の駅わんど の駐車場にある、赤い靴記念像。

1921年に発表された、野口雨情作詞、童謡赤い靴の像です。

像の説明文です。

説明文の内容が、ひっかかります。
・外国に渡ってないのに、童謡赤い靴のモデル。
・モデルとなった女の子は、病気なのに親と離れて暮らし、そのまま亡くなる。
違和感を覚えたのは、この2点。
そのままでは気持ち悪いので、調べました。
調べない方が良かったのかも知れませんが……。
この像のモデルになったのは、佐野きみちゃん (1902年7月15日~1911年9月15日) です。

「きみ = 赤い靴はいてた女の子 説」が広まった経緯を箇条書きします。
・1973年11月17日、北海道富良野町に住む、きみの妹が投稿した記事「幻の姉『赤い靴』の女の子」が北海道新聞夕刊に掲載される。
以下抜粋した内容。
野口雨情の童謡赤い靴は、私の長姉君子のことを歌ったものだ。
君子は、私の父鈴木志郎の長女で、明治の末期にアメリカ人宣教師に養女として貰われ、アメリカに渡った。
父は、社会主義新聞平民新聞を発行した平民社の北海道開拓事業に参加。
農場はやがて解散するが、解散の前に札幌の新聞社に入社していた。
同僚に石川啄木と野口雨情がいた。
父母は、野口雨情夫妻とともに、借家を借りて同居していたらしい。
母の話によれば、雨情は温厚な人。
奥さんは裕福な家庭のお嬢さんだったが、新聞社の給料不払いのために衣類を質屋に入れていた。
夫妻には私の姉と同じ歳の男の子がいて、非常に親しくしていた。
従ってアメリカに渡った長姉君子のことも話したらしく、それを雨情が赤い靴に書いたと思う。
君子は渡米して数年後に死んだ、と後で風の便りに聞いた。
君子が永眠した場所、墓地の場所は知らない。
・1976年、HTB北海道テレビのプロデューサーが、記事「幻の姉『赤い靴』の女の子」を調査。
投稿者の母、鈴木かよ (旧姓岩崎) の出身地静岡県清水市の市役所で戸籍を調べる。
君子だと思っていた名前は、きみ。
投稿者とは父親が違う私生児。
満2歳の時、きみの祖母の再婚相手、母岩崎かよの義父、佐野安吉の養女となる。
満9歳の時、東京都麻布区で死亡。
プロデューサーは、これらの情報を持って投稿者に取材。
投稿記事の信憑性が薄いことを文藝春秋のコラムに書く。
・1978年、HTBは、新聞記事「幻の姉『赤い靴』の女の子」を基に脚色した、ドキュメンタリー番組「赤い靴はいてた女の子」を製作。
きみは函館でアメリカ人宣教師の養女となるも、結核を発症したため渡米できず、東京麻布の鳥居坂教会孤女院で死亡。
母かよはそれを知らず、娘は渡米したものと思い込んでいた。
番組はテレビ朝日系列で全国放送され、反響を呼ぶ。
・1979年、HTBのプロデューサーによる本、「赤い靴はいてた女の子」が現代評論社から出版。
「きみ = 赤い靴はいてた女の子 説」が事実として定着する。
以上が「きみ = 赤い靴はいてた女の子 説」が広まった、大まかな経緯です。
佐野安吉がきみを養女としたのは、私生児をもった義理の娘の世間体を考えてのものでしょう。
鈴木志郎と野口雨情が同居していたという記録は、一切無いようです。
野口雨情が赤い靴にモデルがいると公言したことは、一度もありません。
佐野安吉は社会主義活動に傾倒し、社会主義結社、平民社に参加。
1905年5月、安吉は北海道に渡ります。
1905年12月、平民社が設立した農場、平民農場に入植させるため、安吉はかよを含む家族を迎えに行き、一家は北海道に移住します。
農場という名前ですが、実態は土地の大半が原野で、生活は過酷だったようです。
平民農場の場所は、現在の留寿都村です。
きみも一緒だったのでしょうか。
平民農場について書かれた複数の文献を調べても、入植者岩崎かよに子供がいたとは書かれていないようです。
入植時、幼い子供を連れた女性がいれば、記録に残すはずです。
普通の農場ではなく、社会主義活動啓蒙のための農場ですから、美談にするため、なおさら書くでしょう。
厳しい生活が予想される、北海道の開墾地。
当時3歳だったきみを連れては行けず、安吉によって孤児院に預けられたのではないでしょうか。
きみがアメリカに渡ったという物語は、かよに子供との生活を諦めさせるために、安吉がついた嘘なのかも知れません。
同時期、当時函館に住んでいた社会主義活動家、鈴木志郎も平民農場に入植します。
かよは平民農場で鈴木志郎と出会い、1906年に結婚します。
つまり、佐野きみと鈴木志郎は、一度も会ったことが無い、ということになります。

赤い靴の内容と、佐野きみちゃんの生涯には、大きな隔たりがあるようです。
しかし、母親かよにとって、「きみが赤い靴の少女であること」は事実だったのでしょう。
野口雨情がきみを赤い靴のモデルにした可能性は、低いと思います。
しかし、全く無かったと断言もできません。
きみちゃんの物語をかよから聞いた野口雨情が、後年赤い靴を作詞しながらきみちゃんのことを想う。
たとえ事実と違ったとしても、語り継がれる物語としては、美しい。
利用する人間にとっては、都合の良い話です。
きみちゃんは、保護者達の身勝手で無責任な、社会主義活動の犠牲になってしまいました。
この赤い靴記念像は、家族に捨てられ孤児院で死んだ娘と、娘を奪われた母親、母親の再婚相手の像です。

歴史に埋もれた事実が広まれば、きみちゃんの供養になるはずです。
「すべての家族が幸せになるよう限りない願いを込めて」イメージされたもの。
その理想の大切さを強く実感させる、優れた像です。
現地を訪れ、実際にご覧になることを、強くおすすめします。
参考文献亀井秀雄 『「赤い靴」をめぐる言説』きみちゃんと赤い靴の概要、野口雨情の作詞に関する分析が書かれています。
アメリカから寄付された青い眼の人形が各地で破壊されたきっかけは、毎日新聞の世論誘導だった、という記述が興味深いです。
阿井渉介 『「赤い靴」をめぐる言説」について』北海道新聞の記事「幻の姉『赤い靴』の女の子」の抜粋、ドキュメンタリー番組「赤い靴はいてた女の子」の矛盾点が書かれています。
福地順一 『童謡「赤い靴」のモデルについて』きみちゃんが赤い靴のモデルではない理由が分析されています。
雑記追記野口雨情は、童謡と民謡の詞を、数多く発表しています。
青空文庫で公開されている野口雨情の作品 すべてに目を通すと、次のことがわかりました。
野口雨情の童謡には、赤と青がよく使われている。
特に赤が多い。
青の多くは、赤の対比として併せて使われている。
「赤い靴」は複数の作品に現れる。
青い眼の人形192?年「夢を見る人形」
1921年「赤い靴」
未刊童謡1922年「あぶらやさん」
1923年「をどりの靴」
「赤い靴」はアンデルセンの童話にもあるが、野口雨情はアンデルセンというタイトルの詞を書いている。
未刊童謡1920年「アンデルセン」
アンデルセン
世界で一番 よい小父さん
子供の 小父さん
アンデルセン
かしこい日本の 子供らに
お話 聞かそと
字々かいた
学校の うしろで遊んでだ
雀も お話
聞きに来い
野口雨情は作詞において、アンデルセンから何らかの影響を受けているのかも知れません。
アンデルセンの赤い靴 は、難解で残酷な物語です。
赤い靴は、アンデルセンの故郷デンマークで信仰されている、キリスト教プロテスタント ルター派の教義を広めるために書かれたものです。
その教義を知らなければ、作者の意図を理解することは不可能です。
公にされる文章には、必ず作者の意図が込められています。
書かれていることと、そこには書かれていないこと。
それを探るのは、とても面白い冒険です。
【Amazon】 赤い靴はいてた女の子 [菊池寛 著] 1979年 現代評論社
【Amazon】 捏像 はいてなかった赤い靴―定説はこうして作られた [阿井渉介 著] 2007年 徳間書店
【Amazon】 赤いくつはいてた女の子 [綾野まさる 著] 2009年 ハート出版
【Amazon】 宗教を物語でほどく アンデルセンから遠藤周作へ [島薗進 著] 2016年 NHK出版新書
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