赤倉霊場のカミサマの託宣によって創建された神社、高増 (たかます) 神社です。
カミサマとは、神おろし等を行う巫者のことで、ゴミソ (御夢想) とも呼ばれていたようです。

高増神社の場所はこちら、板柳町 (いたやなぎまち) にあります。
板柳は、明治28年 (1895年) までは板屋野木 (いたやのき) という名前だったそうです。
県道35号線にある、参道入口の案内板です。

こちらが高増神社です。

鳥居の左隣に大きな駐車場があります。

右隣には、日帰り温泉の不動乃湯。
こちらも高増神社の一部のようです。

鳥居をくぐり、境内へ。

出迎えてくれたのは、子連れの狛犬です。

立派な門がありました。
扁額には福寿門と記されています。
私は気付きませんでしたが、門には七福神が隠れているそうです。

門を抜けると、弘法大師像。
赤倉霊場に関連する神社なので、当然神仏混淆です。
かつては神社庁に属していたようですが、現在青森県神社庁のリストに高増神社の名前はありません。
社務所です。

社務所の横、石像が並んでいます。

手前にあるのは、西国三十三所と記された観音像。

隣は、高増神社を創建した、安田健之助御夫妻之像です。

青森県史には、高増神社創建の経緯が次のように記されています。
【高増神社】 板柳町大俵にある高増神社は、上記のKU女が受けたお告げによって作られた。リンゴ農家のYK男は数年前から、夜ともなれば大男が姿を現し床に長さ1尺8寸、巾が9寸位の大きな足跡を見せるなど、不思議な経験をするようになった。そこでKU女に相談し、その指示で建立したのがこの神社である。境内には仏教の影響も含めたさまざまな堂や石碑が、龍神を祀る施設あり、各地のカミサマが訪れているといわれる。
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青森県史デジタルアーカイブシステム 県史テキストDB → カテゴリ 青森県史 → 28_青森県史民俗編資料津軽 → 第6章 信仰 巫者の空間

文中の「上記のKU女」については、こう記されています。
赤倉山神社は鼻和のバサマとも呼ばれたKU女が大正9年(1920)に初めて赤倉に来て、子供の病気治しのために行をする中からカミのお告げを受けるようになった。大正12年(1923)には「そなたにこの地を与える。よってわが天下る社をきざめよ」とのお告げがあり、この地に霊堂を立てる準備を始めたという。KU女は、行のためにこの地にやってくる他の人々の面倒も手厚く見、霊場内のほかの堂の建設を積極的に応援していた。さらに昭和5年(1930)には、板柳町に高増神社を建立するようYK男に神のお告げを伝えた。
このKU女とは、赤倉霊場に「鼻和の霊堂」を建てた、工藤むら氏のことです。
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瑞穂教 赤倉山神社 赤倉山神社縁起上記の赤倉山神社縁起には、こう記されています。
大正5年: 工藤むらは、自分の子供の病気を治したくて神信仰の道に入った。そして、当時の大浦村の八幡宮へ願掛けを始め、3年3ヶ月の間、毎日水ごりをして、日参りの行(ぎょう)を重ねた。
工藤むら氏が大正5年に願掛けを始めた八幡宮とは、かつて大浦八幡宮と呼ばれていたこの場所です。
☞ 当ブログ記事
大浦八幡宮赤倉霊場については、こちらの記事をご覧ください。
☞ 当ブログ記事
赤倉霊場こちらは、火結命と天照大神です。

猿田彦です。

池には龍がいました。

池のほとり。

こちらは龍神でしょうか。

境内はかなりの広さです。

こちらは拝殿です。
入口に雪囲いが付けられています。

驚くほどに立派な拝殿です。

細工も丁寧です。

薬師堂です。

薬師大神です。
祈願すると、子宝が授かるそうです

太陽と月が彫られています。
庚申塔でしょうか。

この形は初めて見ました。
鳥居に太陽。
伊勢信仰と関係あるのでしょうか。
正体がわかる方、教えていただけるとありがたいです。

こちらは庚申塔です。

石碑がありました。
これらの神々が祀られているようです。

混沌さを感じるほどの、様々な信仰が詰め込まれています。

こちらにも池がありました。
境内に立派な池が2つ。
過剰とも思いますが、存在するからには、存在しなければならない理由があるはずです。

なぜこれほど多種多様な対象が祀られているのでしょうか。

信仰する方々、それぞれがそれを必要としたから、でしょうね。

町長、県知事、国会議員。
錚々たる寄進者達。
赤倉霊場の社会への影響力の強さを、まざまざと実感しました。

帰路、赤倉の山は、雲に身を隠していました。
今は目に見えなくても、あの場所は確かに存在します。
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